「働くということ」
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(横校労ニュース2005年7月号掲載原稿完全版)

「働く」ってなんなのだろう、とふと思うことがある。

源泉徴収票に記されている自分の働きの「年額」を見ても、なんだかピンと来ないのだ。ものすごく良い待遇とはいえないものの、果たしてわたしはその額に見合うだけの働きをしているのだろうか、と。

以前作業所にやってきたことがある下請けの仕事で、一つ50銭なんてのがあって、わたしが一日集中して取り組んでも最低賃金をクリアできないものであったのだが、それを考えるとさらに混乱が増していく。最低賃金なるものは、労働者の生計費や類似の労働者の賃金や通常の事業の賃金支払い能力を基準としているそうであるが、そもそも、モノの値段がどのように決まるのかということさえ、経済の仕組みに疎いわたしには良くわからない。

わからないから調べてみたら、モノの価格は自由主義経済による市場とかいう仕組みの中で決まっているらしいが、作業所での下請け仕事のような分業の最底辺により成り立ちを支えられている社会で、あれが高いとかこれが安いとかいうわたしたちが居る。割に合わないところは、外国人に任せたり、障害がある人たちに委ねたりしながら、働いてもらえるわたしたちの賃金の基準というものは、いったい何なのだろう。

そんなグラグラした土台のうえに高くそびえ立つこの国で、今、障害がある人たちに対する施策が大きく転換されようとしている。

自分の職場はどうなっていくのか気にかかるから、あちこちの勉強会に顔を出している。けれど、作業所というところは法人格を持たないので、ほとんど国レベルの議論の俎上にも乗らない。だからなのか、どうもボンヤリしていて確かな像を結ばない。

地域作業所はそれぞれがすでに持つ機能に応じて移行していくとのことであるが、その役割は就労支援と生活支援という二択に収斂されていく気配だ。

俗に一般就労と呼ばれる障害がある人たちの企業などへの就労は、それほど容易(たやす)いことではない。実際に一度は企業へ就労したものの、職場で嫌な思いをして職を辞し、電車に乗れなくなったり家から出られなくなったりする人も少なくはない。

また、下請けの仕事を受注している作業所のみならず、もっと規模が大きい福祉工場や授産所でさえ、仕事を安定して確保していくことが困難になってきているのが現状だ。けれど、施設各所の努力不足と断罪すれば済むことではない。

それは、発注元が生産性のみを追求すれば下請け先に対しての納期やノルマの要求が厳しくなるのは当然で、世の中の不況の波のなかで、要求に応えられないことはそのまま仕事が減ることを意味しているからだ。

結局、一般就労であろうが、施設においてサポートを受けつつの福祉的就労であろうが、(さらにその施設での継続的就労を、最低賃金を保障するものを「雇用型」、そうでないものを「非雇用型」と名づけるようだが)「雇用型」であろうが「非雇用型」であろうが、この際呼び方はどうでもよくて、生産効率や作業効率のみを企業が至上の指標とするのであれば、障害があることが即ちこぼれ落ちる因子となってしまうということなのだ。

営利を追求する企業にとって、障害者の法定雇用率に従うより一人当たり月額5万円の“罰金”(「雇用納付金」)を負担するほうが効率的であるということは、このような背景を考えれば、事の善悪は別にして、当然の帰結とさえいえる。

一方、就労の支援が難しい人が多く通う作業所の場合、デイサービス事業として位置づけられるようだ。となると、「憩いの場」「レクリエーション中心の場」を担うということのようであるが、就労支援にせよ生活支援にせよ、選択肢の乏しさに悲しくなってしまう。それは、選ばされる人々に対してというより、人間が「生きる」ということについてそんな幅しか考えられない施策提案者の発想の貧困さに対して覚える悲しみだ。選択肢が少ないと訴えれば、「雇用型」や「非雇用型」と同様に就労支援と生活支援の二極の間を何分割かしたグラデーションで応じるのが関の山だろう。


たったいま、国会では障害者自立支援法が審議されている。5月12日には日比谷で大きな集会が催され、議員の中にも多少の是正に前向きな動きも出てきているようだが、郵政民営化や靖国参拝問題、はたまた会期延長を議決した本会議に酒気帯びで臨んだとか臨んでないとかなんてことまで出てきて、ごった返す中たいした話題にもならないまま成立していく可能性が高い。7月5日の参加者一万一千人ともいわれる障害福祉史上最大のデモにもカプカプのメンバーと一緒に参加したのだが、「郵政民営化法案」の衆院可決と重なり、ほとんど報道されることはなかった。

サービスの利用量に応じて生じる「応益負担」なんて論外であるから、廃案に向けて反対していくことは不可欠である。ただし、法案に反対する想いのあまり、反対そのものを一義とし問題の所在を見逃してしまうと、たとえ今回流れを食い止められようとも、結局後戻りができない分岐点を取り返しのつかない方向に進んで行ってしまう気がしてならない。

だからこそ、国が施策を大きく転換するこの機会に立ち止まり、働くということはいかなることか、この国に住むわたしたちみんながもう少し真剣に考え直さなくてはならないのではないか。


カプカプは二つの作業所でそれぞれ喫茶店を開き、横浜市ひかりが丘地域ケアプラザという施設内にも喫茶コーナーを構えている。そこではさまざまな障害がある三十名ほどの人たちが働いている。

お菓子作りや注文取りや給仕はもちろん、お客様に「お元気ですか」と声をかける人や、「旅のかた、ごゆっくりどうぞ」と水を出す人、絵を描いたり裁縫をしたりしながら仲間とのおしゃべりをする人もいる。あまりにやかましくなったり、わざとオナラしたりして騒いでいると注意されるが、横になってその雰囲気を楽しんでいるだけの人も居る。

そのようなヘンテコな喫茶店ですごすことを楽しみにいらっしゃる奇特なお客様がたのおかげで、店はつぶれずにいる。わたしたちも、珈琲や紅茶の原価を差し引いた分が彼/女たちの“接客”の対価だと思っている。それぞれの歓待の仕方でお客様を迎える接客。さらに言えば、ただそこに居るだけという働き方もあると信じている。


すでに鬼籍に入った父から、昔の人は「働くというのは(はた)が楽になるということだ」と言ったものだと折にふれ聞かされた。まだ働いてはいなくて、当然養われていたわたしは、えらく恩着せがましいことを言う親父だなと、確か思ったはずだ。

けれども、今はそうは思わなくなってきている。「楽」を経済的豊かさに限定してしまうと耳障りな言葉かもしれないが、楽しさとか人間的豊かさを含むと考えるならば、周りの人たちが楽になるような、「働く」という言葉は希望に満ちた響きを(まと)う。

おいしいものをこさえるとか、心地よい服を仕立てるとか、こころを揺さぶる絵を描くとか、魂が共振するような歌を唄うとか、嬉しくてたまらなくなってしまうような挨拶をするとか、つられて笑ってしまうような愉快な空気をあふれさせるとかいうふうに、生きていることの豊かさを全身で表現することが、周りの人たち(家族や同僚のみならず、お客さんや近所の人、声をかけ合ったりまなざしを交わしたり関わりをもつ全ての人たち)の生を豊かに彩っていく。その人の特性が即ち排除される要因とはならず、むしろ他者に生きる力をみなぎらせるがごとき「かけがえのなさ」となるような、ひるがえって、他者が在ることを感謝せずにはいられなくなるような、そんな働くカタチは絵空事でしかないのだろうか。

限りない可能性を孕み、おおらかな幅を持った働きのスタイルは今後の制度改革の中で生き残れるのか。これは、断じて「障害者」と括られた一部の人たちの問題ではない。彼/女たちも含めた、わたしたち(あまね)く全ての人間の、生きる尊厳を護れるか否かが、「働き」のオルタナティヴ(もうひとつの選択肢)の創出に懸かっている。


註 厚生労働省障害保健福祉部が用意しているであろう「次善案」から「応益負担」が万が一消えたとしても(「応益負担」を「定率負担」と言い換えた、あの第24回社会保障審議会障害者部会のようなものではなく、まさにサービス利用量に応じて利用者本人に負担させるという制度そのものが鳴りを潜めたとしても)反対運動の成果だと喜ぶのは短絡だ。

支援費の介護保険制度への統合問題は立ち消えになったと思っている向きも少なくないかもしれないが、障害者部会では「介護の普遍化」という呼び方で統合への議論は脈々と続いている。そして、施設利用する高齢者から「ホテルコスト」と銘打って居住費や食費の全額徴収、軽度者の制度利用制限、などが盛り込まれた「改正」案が参院本会議で可決・成立した(6月22日)。

統合先と目論まれている介護保険を取り巻く状況の悪化を見ると、すでに「応益負担」は制度化を内定されていて、後は手続きを踏んでいくだけなのだ、と言ってしまうと乱暴だろうか?

ただし、わたし自身はそのような現実政治の動きにはさしたる興味もない。だからこそ、必ずや官僚諸君の用意している前述のような悲観的な落とし所に至ると、確信に似たものさえ居座っているのに、失望も諦念も到来しない。たとえどれほど絶望的な未来であっても、絶えることなく連綿と抵抗を続けることこそ切要なのだという想いだけがある。

しなやかでいて根源的な抵抗のためには、現前する社会の枠組みの中でもがくのではなく、その枠組みを支える価値基準自体に疑問を呈したり、組み替えたりすることが求められる。それは取りも直さず、理不尽さを温存する社会を黙認し続けているわたし自身に突きつける問いであるために、枠組みの中でもがくことより苦しいのかもしれないのだが、きっとその先に希望があるのだと信じている。

抗っていくためのスタンスは多種多様であろうが、自身の関心領域にある「働く」ということについて既存の価値観を揺さぶり、そこに足場を組む試みとして、本稿は記された。


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